長生炭鉱

今も183柱が海底に海上に残るピーヤー
 「昭和17年2月3日の朝、沖のピーヤ−の水はピタリと止まった。50年たった現在でも183人の炭鉱の男たちは海底に眠っている。 永遠に眠れ 安らかに眠れ 炭鉱の男達」
 これは西岐波大沢の海岸近く、元長生炭鉱の食堂があった場所に立てられている「殉難者之碑」の文面である。

 海の方を見ると、コンクリートの円形型のピーヤーが2つ、静かにポツンと残っている。炭坑の排気坑、入気坑である。高い堤防の内側に今、長生グラウンドの広場があるが、その横には炭住(炭坑で働く人の社宅)が残っており、当時の面影を残している。

宇部の炭田は西岐波のこの辺りが東の端であり、藤里俊裕氏が調べられた炭坑名の表を見ると、西岐波には新浦・上ノ原・宮浦・東郷・万宝という名の炭坑がある。 新浦炭坑は明治15年に始まっており、2、3回経営者が変っているが、大正9年に海水浸水で34人もの死者を出す事故を起こしている。

この辺りの海底では割合に浅いところで石炭を掘っているが、宇部炭田の特殊条件により採炭の許可は出ていた。炭坑の坑内は落盤など事故の多い職場であり、ことに海底炭坑の浸水による事故は一度に多くの犠牲者が出る。宇部炭田で一番死者が多かったのは大正4年の東見初炭坑の235人で、次に多いのがここ長生炭坑の事故であった。

最近、テレビや新聞でこの事故のことが話題になるが、犠牲者183人の中には131人の韓国や朝鮮の人たちがいたこと、その中には強制連行という形で連れてこられた人がいたことである。昭和14年には石炭増産のため、坑内労働にも特例が出て女子の坑内労働も許され、また朝鮮人の労働者の移入も始まり、集団移民が多くなった。ことに宇部炭田は長生炭坑だけでなく、沖宇部、東見初炭坑などは朝鮮の人たちが多かった。

長生炭坑の事故は太平洋戦争が始まってから2ヶ月後のこと。戦時下で報道も控えめであったため世間の目に触れなかった。今建っている殉難者の碑も当時の関係者や公民館の人たちによって事故から40年後(1982年)に建てられた碑である。

 (故黒木 甫氏著「ふるさと歴史散歩 宇部」より)

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