長生炭鉱跡
【 はなやかりし頃の長生炭鉱跡  にしきわだよりno18 (S56.3)から 】
【 現在はありません 】

鉱職員800名を擁した長生炭鉱の思い出

ビヤーが二つ、ホツンと海に立っている。今日も静かな海である。 ・・・浜えんそうの咲き乱れた四十数年前の浜辺・・・ 沖のビヤーは夜も昼も休みなく水を吐き出していた。 昭和12年7月7日盧溝橋に端を発した支那事変、そして大東亜戦争と、石炭産業は一躍時代の流れに副って活気を呈した。

当時の長生炭鉱も東見初、沖の山に次ぐ出炭量を誇り、800名の鉱職員を擁し、昭和14年には50馬力の捲揚機が150馬力となり、坑内には電車を走らす企画で、電車坑道が着々と堀進されていた。また捲揚機の裏側に長生停留所があり人の乗降も多かった。

にしきわ音頭の踊りをふり付けされた石井好美先生の厳父は管木鉱務部長で、石井好美先生の師、石井漠が洋舞を市民館で催したが、それは盛会なものだった。又当時労務課長だった柴田喜代太さんが、双葉山一行の勧進元を勤め、新川の山銀裏で興行を打った時も大変なものだった。

炭住の中央に道路が走り、その道路の両側に毎日市が立ち活気を呈していた。昭和17年(大東亜戦争勃発の翌年)2月3日朝。沖のビヤーの水はピタリと止まった。捲揚機の騒音が聞こえなくなった。183名の産業戦士は今でも静かに海底に眠っている。・・・・・・合掌

◎ビヤーのことを炭鉱用語でピイヤーと呼んでいた。ピヤーは空気を入れる筒と空気を排出する筒であり、二つ今でも長生沖に立っている。又ビヤーは海底の水を吸い出すパイプが張り巡らされていた。

(筆:井上正人氏 昭和56年3月 西岐波公民館発行 ”にしきわだよりNo18” 西岐波昔話シリーズより)

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