長生炭鉱・殉難者の碑に想う

日支事変の起こったのは昭和十二年七月七日、それは七夕祭りの日でした。当時の西岐波は人口7千人足らずの小さな漁村で、吉敷郡西岐波村と書かれた郵便物が届いていました。

戦争は満州から大東亜戦争へと益々拡大していったのです。地下資源の石炭は、当時の基幹産業に欠くことの出来ない重要な役目を占め増産増産の毎日でした。今でも床波の沖にポツンと二つ立っている「ピーヤー」(空気及び排水抗)と国鉄宇部線のほとりの、当時50馬力であった捲巻機用の高いコンクリートの基礎が昔の長生炭鉱の名残を留めています。

長生炭鉱は宇部炭では沖の山炭鉱、東見初炭鉱に次ぐ出炭量を誇る炭鉱でした。鉱職員も多いときには800人を越え、当時の西岐波村の三分の一は長生炭鉱にかかわりのある人でした。朝鮮の人達も多く働いておられ、皆で石炭増産の一翼をになう産業戦士として大きく発揮しておられました。

キャップランプを頭に灯し、一番方、二番方、三番方と海底の職場へ、それは戦いです。明日のない人生との戦いでもあったのです。夜も昼も海底から炭車の群れが、捲巻機の騒音と共に捲き揚げられていたのです。午後ともなると、社宅の路の両側に市が立ち、魚が、野菜が、日用品が山のように積まれ、お国なまりの日本語、朝鮮語、片ことまじりの日本の言葉と、それは炭鉱の奥さんや子ども達の憩いの場でもあったのです。

当時は娯楽も乏しかったので、住吉座(今の住吉会館)に芝居や映画が掛かるといつも満員となり、新浦から住吉に至る床波駅周辺は床波銀座通りで大層にぎわっていました。昭和十五年頃から床波駅は毎日のように「出兵兵士を送る歌」や万歳の声で大変でした。捲巻機跡のコンクリートそばに、今でも昔の面影を残している「長生駅」が新設されたことからも、当時の長生炭鉱の隆盛を計り知ることができるのではないでしょうか。

このような環境に突然悲劇が訪れたのです。それは昭和十七年二月三日の朝のことでした。沖の「ピーヤー」の彼方に無数の潮が吹き上がりました。銃をつるはしに変えて炭を掘っていた炭鉱の男達が今でも静かに眠っているのです。あれから四十四年の歳月が流れています。昭和五十七年四月、当時、西岐波自治会長協議会長であった蔵重準助さんが委員長となられ、西岐波の長老で今は亡き元県議会議長の土屋基雄先生の最後の筆になる「殉難者の碑」が建立されました。

ウエブサイトよりダウンロード

昭和十七年二月三日の朝 沖のピーヤーの水は ピタリと止まった
四十年を迎えた現在でも 百八十三名の炭鉱の男達は 海底に眠っている

永久(とわ)に眠れ 安らかに眠れ 炭鉱(やま)の男達よ

昭和五十七年四月吉日建立


碑には当時事務局長であった私の詩文が深く刻まれています。

今年の二月三日殉難者の四十五回忌が催され、多くの人達が参列されました。遺族の方々の胸中何をか言わんであります。

今日の平和な西岐波、それは尊い犠牲者の有形無形の何かがあると思います。碑の近くを通られましたら殉難者のご冥福を祈ってください。そして、子どもさんやお孫さんn言い伝えてください。ピーヤーもいつかは姿を消すことになるでしょう。

(筆:井上正人氏 昭和61年10月 西岐波公民館発行 ”にしきわだよりNo32” 西岐波昔話シリーズより)
  海底炭鉱の図はウエブサイトよりダウンロードさせていただきました。


その後も毎年2月、朝鮮半島から遺族が来られて慰霊際が行なわれています。
平成17年4月22日、韓国政府の調査員会が長生炭鉱を訪れた。
韓国で「日帝強制占領下強制動員被害真相究明に関する特別法」が成立し、その最初の調査の為の訪日でした。

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