床波と福原越後公

住吉神廟の碑に「・・・延臣和気清麿勅を奉じて筑紫に航し防洋を過ぐるに及び、颶風俄かに怒り将に舟を覆さんとす。清麿頭を叩き神に躊る。忽にして空中に一翁現出し、告げて曰く、今汝の精忠を憐み将に此厄を救わむとす。吾れは是れ住吉の霊にして久しく此れに廟食す。乃ち白気として去る。果して直に風収まり波平ぎ、万項一碧座床の如し、因みて基地を床波と名づく・・・」と床波の地名の起こりが記されている。

床波浦は「福勝三郎様知行所」であった。福(原)勝三郎は、福原家二十三代親俊公のことで、二十六才の若さで病没した。その後を継いだのが、二十四代福原越後元?公で、号を翠崖と言った。越後公は文武両道を兼ね備えた人物であったが、どちらかと言えば、武より文に長けた人であった。和歌「緑浜詠草」漢詩集「翠崖詩鈔」などの著書があり、そのほか多くの和歌漢詩を残している。

福原勝三郎の後を継いでから、床波浦へもしばしば来駕し、お忍びで浜を散策し釣りを愉しんだという。眺望絶佳の高台堂崎や、錦波銀波の打ちよせる瀬崎に佇めば、四季賛歌に恵まれた瀬戸内海の風景が心を捕え、ひとしお詩心を掻き立てられたことであろう。

明治維新の夜明けを目前にした動乱期、藩論乱れるなかで、政変の犠牲となって、元治元年十一月十二日、岩国で切腹。悲劇的な50才の最後をとげたのである。同じく前日の十一日には、須佐の領主益田弾正、万倉領主国司信濃が切腹している。越後公の辞世の歌「くるしさは絶ゆるわが身の夕煙空に立つ名は捨てがてにする」無念の想い如いくばかり何ばかりのことであったろうか。やがて高杉晋作らによって、明治維新の新時代が訪れてくる。

(引用:ふるさと西岐波 地域偏・床波 編集:宇部市西岐波ふるさと運動実行委員会 発行:昭和63年3月)

[Home] [Return]