雲客の詩歌

三条実美等七卿長州落ちで山口湯田に滞在していたとき、宇部には東久世通禧、錦小路頼徳の二卿を迎えて、 文久三年(1863)十一月十三日と十四日、緑ヶ浜において練兵を見せた。 その途次、二卿は床波浦に立ち寄った。

本藩領と福原領との、ちょうど境である床波浦までは、本藩の世子元徳公が騎馬で見送り、一方床波浦まで福原越後が出迎えた。 そのとき両卿は、この浦の加藤惣兵衛邸(現加藤蓉台氏)で休憩をとった。 両卿は床波浦の絶景を目のあたりにみて、その眺望の美しさを賞し、主人に筆墨を与えた。



床波の里
加藤惣兵衛の家に休らいて
 うちわたす浦のけしきはとこ波の
 たちてもゐてもあかれこそせぬ
         頼徳(錦小路頼徳よりとみ)



清?園偶成
         通禧(東久世通禧みちとみ)
憩杖床波駅 望奇六々浦
銀浪与碧嶺 即入画図看



次雲客瑶韻
蜿蜒豊後岳 浩漾周芳灘
若個佳山水 共成雲客看
         翠崖(福原越後)


清?園:現在の現在の加藤蓉台邸内にあった。

錦小路頼徳:元治元年四月二十四日 馬関白石邸において病没。行年三十才。

東久世通禧:明治維新帰楽後、鳥羽伏見の役には参謀として従軍。 更に英仏伊露和国に使節として派遣され、後侍従長、枢密院副議長の職を奉じ、明治四十五年一月四日病没。行年八〇才。

福原越後:名は元? 文久十二年八月二十八日、徳山に生まれ。 はじめ佐世氏の養子となったが、福原氏の先代親俊(福原勝三郎)の死去にともない、時の藩主忠正公の斡旋で同家を継ぐ。 長じて大夫の職にあること六か年間、つねづね藩主を輔けて色々な改革を断行し、大いに治績を挙げたが、 その責を負うて元治元年十一月十二日、岩国の竜護寺(現清泰院)において自刃した。行年五〇才。

(引用:ふるさと西岐波 地域偏・床波 編集:宇部市西岐波ふるさと運動実行委員会 発行:昭和63年3月)

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