荒人神社

 西岐波の床波駅から漁港へ行く旧道に荒人神社がある。荒人のお堂と言うことで嵐堂と書いた物もあるが、住吉神社と言う人が多い。南方八幡宮の末社であり正式名は荒人神社となっている。

 本殿の左に、慶応元年(1865年)に作られた神社の由来と床波の地名のいわれが書かれている立派な石碑がある。漢文で書かれているが、要約すると 周防国吉敷郡床浪の地に住吉の社がある。この社は今から1100年ぐらい前、漁師が漁をしていると、空に神人が現われて「我は住吉の霊である。今まで西海の地に祭られていたが、今ここに良いところがあることが分かった。ここに住んで水の災難をなくそう」と言って消えた。

 そこで漁師たちは村人たちと相談して住吉神社を建てた。時に天平勝宝3年(七五一年)のことである。
 床波の名は和気清麻呂が宇佐八幡宮に神のお告げを聞きに行く時、この付近で嵐に遭い船が沈みそうになったので、波が鎮まるよう神に祈ったところ住吉の神が現われて波を鎮めてくれた。船が床に座っているような波になったことから床波の名が付いた、とある。  のち、正徳5年(1715年)、今の西岐波一帯に疫病が流行した時、これを鎮めるために京都の八坂神社を勧請して住吉神社を合祀した。この時から荒人神社と呼ぶようになったらしい。

 社殿の正面の「かえるまた」のところに二に三星の福原家の家紋がついているが、白松ノ庄が福原氏の領地だったからであろうと思われる。床波浦は浦石680石あった。浦石というから昔から漁は盛んだったことが分かる。

 住吉様の境内に恵比須神社の社殿が3つもある。恵比須様のご神体は網にかかった大きな石である場合が多い。新しい社は昭和52年に浜組漁業者一同寄進と書かれている。このほか皇太子殿下ご生誕記念碑や形の良いとても大きな灯篭もある。   特色のあるものとして入り口の所にある一対の狛犬は二つとも子どもを抱え込み、とてもかわいらしく神社の狛犬としては珍しい。

 神社付近は炭鉱が盛んなころはとてもにぎわっていたそうである。今、住吉会館になっているところは住吉倶楽部といって芝居小屋があり、旅回りの芝居が来ていた。座席も桝席になっており、回り舞台もあったと言うから本格的な劇場であった。

 (故黒木 甫氏著「ふるさと歴史散歩 宇部」より)

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