醤油
山米醤油 明治三十六年から三十七年頃にかけて醤油製造の事業をはじめた。
床錦醤油 沖永市右衛門氏が大正末年頃から昭和の初めにかけて醤油醤油の事業をはじめた。
丸國醤油 西村敬二氏が昭和のはじめから同18年頃まで弘長氏のあとを引き継ぐ。
そのほか、藤重生助氏も醤油醤油を営んだ。

酒造
寛文七年に長崎奉行中島九郎右衛門が江戸への途中、海路床波沖にさしかかって難波した時に三井家に救われ、 その報恩のために、翌寛文八年に酒造免許を与えられたという。
大正から昭和のはじめ頃、浦安にも国吉酒造があった。
酒造に使う水は、権代川や片倉の井戸水を汲みあげて、馬車で運んできた。馬車の上に檜か杉の四角い箱枠を造って それに水を汲みこんで運んだ。その位に当時の権代川は清流であった。
三井酢造の「床の梅」が創められたのは、明治十年頃である。 明治から大正期にかけては大変にに繁昌して、遠くは朝鮮や満州方面にも販路進出したという。 また、大正時代に、浦安の西村氏も「満歳酢」を製造した。
塩田
床波塩は特色を持っていた。色は黒かったが、これは石炭をたく煙が余計に入ったためである。 塩田の終わりは明治二十一年頃であった。潤輝館や住吉座のあたりは昔は塩田であった。 製塩所は西村精米所あたりにあった。
徳永伝八氏や藤本初乃進氏のあたりも、皆塩田であって、沖永醤油店のあたりは開作と言っていた。 江頭の川はこちら(支所の方向)へ流れて、切り抜きと称して権代川より後に土手が出来た。 あの辺りを新開作と言っていた。
製塩所は六畳の間くらいの石と土の棚をつくって、その上に砂が置いてあった。 その下が二、三尺あり火の焚口は両方にあった。
濃厚な塩水で貯水しておいて、定量柵の上に入れる。五、六寸ぐらい塩水をいれて、下から石炭をごうごう燃やした。 時間がたつと水の中から塩の結晶をこさぎ取っていた。 水が干しあがらぬうちにこさぎ出した。煙は煙突がないので一面にたちこめ塩が黒くなった。
燃料の石炭は常盤の石炭(石炭を掘ったのをタブ=炭生と言った)を使った。 その頃は別に所有者もなかったので、浜を持っている人達がタダで掘って使っていた。
塩田

引用:ふるさと西岐波 地域編・床波  宇部市西岐波ふるさと運動実行委員会  発行 昭和六十三年三月
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