床波と宇部

毛利家の永代家老、宇部領主福原家は、天和元年(1681)12月宗藩から床波、今村高434石6斗7升5合の地を与えられている。白松郷のうち床波が福原家の領地になったのはこの時からである。 防長風土注進案には、床波浦 福勝三郎様御知行所として田数48町3反7畝27歩、高487石9斗5合、畠数58町4反7畝29部、高235石6斗5升6合、塩浜浜数1町8反7畝28歩、高35石3合と記録されている。

福勝三郎様とあるのは、福原家23代目福原勝三郎親俊のことである。天保4年7月2日の生まれで、4才で祖父房純の跡を相続した。親俊が青年の時はペリー来航後で、激動の時代であり、長州藩は安政5年、兵庫一帯の海岸警備に当たり、親俊は総奉行として兵庫に赴いている。そして8月病気になって役を辞し、その年の10月には26才の若さで歿した。

岐波村が東西岐波村に分かれたのは、明治12年10月で、郡区町村編成法が実施された時かれである。明治になるまでは、西岐波は床波浦を中心にして、権台、今村、大沢、黒崎、鯨村、岡ノ辻あたりにかけ福原家の所領であり、福原氏はまた宇部の領主でもあったので、床波浦は旧宇部とのつながりが深かった。

明治時代になっても一層その交流には深いものがあった。唱和23年西岐波を語る古老との座談会の中心に「錦波協会というものがあった。これは政治には関係していなかった。この協会は村の予算で出せぬ金を取り扱っていた。不意に要る金などは錦波協会がやっていた。これは宇部の達聡会をまねてつくったものである」と語られている。達聡会とあるのは、おそらく宇部の共同議会のことであろう。

錦波協会も宇部の達聡会と共同議会のよいところを兼ね合わせたものではないだろうか。錦波協会の活動が具体的にどのようなものであったのか記録が残されていない。 今日の宇部発展の原動力となった宇部精神の基は、共同議会と達聡会と言われている。この双者は物と心との役割りをそれぞれ受けもち、車の両輪の役割を果たした。共同議会は教育共同事業の援助や、石炭鉱区の管理をはかり、郷土の開発、共存共栄の精神を重んじた。明治19年5月設立、昭和25年5月に解散。達聡会は村世論の中心となる機関で、明治21年5月に設立、昭和18年に解散している。

床波は地理的にも旧宇部に近接しており、宇部で指導的な役割を持つ人々も、床波浦に来浦して、文雅の人々が集まって詩歌の会をひらいたり、文明開化を論じ合ったりしたであろう。そうした交流をとおして、宇部精神の影響を受けることが多かったであろうことは想像できる。昔から床波は物心両面で恵まれていた。風光も明美で、地理的にも災害を受けることは尠く、自然環境に恵まれ生活は落ち着いていた。 純朴温順な土地の気風が、住む人々の心を豊に育んでいた。

(引用:ふるさと西岐波 地域偏・床波 編集:宇部市西岐波ふるさと運動実行委員会 発行:昭和63年3月)

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