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≡ 床波の歴史 ≡    2017年2月20日 改定

大昔  江戸  郷土史より  明治  西岐波小学校  吉敷郡教育史  私立西岐波文庫  大正  昭和  炭鉱  平成  資料とリンク

床波の位置

床波は山口県の西南部、瀬戸内に面し、宇部市大字西岐波およびJR宇部線の床波駅あたり一帯 をさす地域の名前です。
( 2006年3月 「床波」が住居表示に復活?しました。)

辞典および書籍また、インターネットで国立国会図書館・電子図書館の蔵書のサイトに入り 床波および西岐波に関係するものを抜き出して(引用して)時代順に並び替えてみました。
その土地の歴史は周辺の歴史と密接な関係があります。ここでは狭い範囲での説明なので 情報不足であるうえに、内容は書籍からの寄せ集めであることをお断りしておきます。
(引用図書はトップページの「参考図書」に載せてあります。)

大昔

旧石器時代
長桝(ながます)遺跡
山側に隆起性海岸の宇部台地が広がり、宇部台地において旧石器時代の遺構が多く発見されています。
西岐波小学校近くの長桝遺跡から旧石器時代(1万数千年前)のナイフ型石器や細石刃(さいせきじん)などの石器類、 縄文時代早期(8000年前)の炉跡・住居跡・土器片・石族(矢じり)が出土しました。
宇部台地おいて旧石器時代人は縦型(黒曜石)と横形(サヌカイト)2つのタイプのナイフ状石器を用いています。
材料の黒曜石やサヌカイトは大分県姫島や佐賀から求めたものです。
長桝遺跡
長桝遺跡に建つ説明板

地形の変化 地形の変化 クリックすると拡大します。


宇部郷
宇部市はその昔、宇部郷と呼ばれ、平安末期、厚東(ことう)郡司に任用された厚東氏が 館を厚東区棚井付近に構え本拠とし、7代武光のとき霜降山に築城(1179)する。
17代義武は周防守護大内広世(ひろよ)に攻められ落城。(1358)
大内氏は200年間宇部を治めていたが、陶晴賢(すえはるかた)に滅ばされ(1551)、その支配下となる。
1555年、毛利元就が陶氏を滅ぼし、周防・長門両国を領有、明治維新を迎えるまで続く。

江戸時代

白松庄
西岐波は宇部市の東に位置し、東岐波とともに阿知須町に隣接している。
関ヶ原の戦い(1600)の年の検地帳によれば、現阿知須町全域と東岐波と西岐波にあたる 吉敷郡白松庄が出てくる。以後、白松庄の名は江戸中期頃までの検地帳に白松村ととも に併用され江戸中期の「地下上申」(1740)で初めて佐山・井関・岐波に分かれる。
萩藩における郡の行政単位は宰判とよばれ、1650年から江戸期を通じて 現大字西岐波は小郡宰判に属した。
近世村別地図
近世村別地図 (図書から引用)


西国境 国境
長門・周防の国境
国道190号線(亀浦)中央分地帯に現代の国境標識


岐波村・江戸中期
鍋島、黒崎ノ鼻、床波浦、白土、吉田、今村、柳ケ瀬、請川、山村、片倉 の地名がみえる。

大昔の床波・時代不明?
図引用:ふるさと西岐波 地域偏・床波「ふるさと床波」より
地形の変化 地形の変化 クリックすると拡大します。

片倉(庁倉)あたりまでが海であったということだ、鯨とか沢波とかいう地名が今でも残っている。 やっぱり海にちなんだ名だね。床波という地名もずっと昔からあったようだが、 波が床のように静かということかな。
(引用:にしきわだよりNo.6 S53.6)
参考資料⇒字図(床波付近) 字図(床波付近) クリックすると拡大します。


床波浦
周防国吉敷郡の南西端近くに位置する本浦。ほぼ中央に沢波川(さわなみがわ)が南流する。
寛文8年(1668)三井酒場が仕事を始める。塩田・醤油・酢・酒造
天和1年(1681)福原氏が床波今村以西の430石を二股瀬の山中・車地の代替地とした。
貞享4年(1687)福原広俊に毛利藩主が床波村649石を打渡す。床波浦海上石 82石5斗6升と定められる。
        床波で塩が1町2畝12歩から23石5斗3升1合とれる。
福原家文書によれば1687年9月、床波村649石余を福原弘俊が吉敷郡白松上の原の替地として給領に割り当てられている。
元禄10年(1697)常盤池ができ、西光寺が今の地に移る。
元禄14年(1701)床波浦でとれた魚、石炭を売ることを許される。
        床波の水害を防ぐため江頭川を掘る。

和智元郷の墓 和智元郷の墓
和智元郷の墓(白土海岸)

福原氏は家老の椋梨俊平を使って床波開作(四十五町歩)

引用:ふるさと西岐波

開作のできる前は江頭川と沢波川は一しょになって、床波は芦の生える水たまりでした。 また、新浦に砂山ができてからは一そう水はけが悪くなりました。 そこで江頭川を今の江頭橋のあたりから海まで掘って水を通し、ここにも開作を作りました。
地形の変化 地形の変化 クリックすると拡大します。

「地下上申」(1740)
御庄屋元より壱里七丁程 一 床波浦  家数八拾八軒 海上石八拾壱石五斗六升  但福原豊後様御領、村中に西光寺と申寺有之、村中に御高札有之、 御高札西脇に豊後様御蔵有之
白松はかつて百姓小浜といわれる農家の副業で製塩業が行われていた。
お年寄りから、「床波の新浦一帯はかつて塩田があった」 と聞かされたことを思い出した。
新浦を掘ると、土地は砂ばかりです。


文化3年(1806) 伊能忠敬 第5次測量:畿内・中国測量
伊能忠敬1806年
アメリカ議会図書館(伊能大図)#176部分 / 伊能忠敬の測量成果に基づく「大日本沿海輿地全図」
InoPediaによるアメリカ議会図書館へのリンク
この伊能大図(米国)は、国土地理院の前身である参謀本部陸地測量部の輯製(しゅうせい) 20万分1図作成のための骨格的基図として模写されたものと考えられています。


江戸後期の「風土注進案」(1841)によれば、
床波浦の福原氏給領分は、 田数四八町余で高四八七石余、畠数五八町余で高二三五石余、高札場一ヶ所と記し、
「此村漁業第一出精、中以下の者酒油醤油其他諸商ばかりにて渡世仕候者多く、 又は農業一途或は諸職人廻船働等仕部も有之、戸口も他村に勝れて多き所に御座候事」 としている。
岐波村絵図・部分
1860年頃 岐波村絵図・部分 「描かれた小郡」より   文末「資料とリンク」を参照
塩田に注目:江頭川の河口から沢波川にかけてアゼのように描かれている
ナベ島、黒埼、大沢、今村、住吉社、西光寺、床波、白土、山村、吉田、村松、丸尾埼

寺子屋について、西岐波村に文久3年(1863)から明治2年(1869)にかけて 11の寺子屋の開設があって特別に多かったとあります。

文久3年(1863)11月13、14日 七卿長州落ちで山口湯田温泉に滞在していたとき、 二卿の東久世通禧(みちとみ)、錦小路頼徳(よちとも)は床波浦に立寄り、福原越後が出迎えた。


引用:郷土史「ふるさと西岐波 地域偏・床波」

床波と宇部
床波と福原越後公
西岐波八景
雲客の詩歌
昔の床波往還/御駕篭道(おかごみち) クリックすると図が表示されます。
道しるべ 曲り角にある石柱の道しるべ、右がメインルート、ちなみに左に行くと海へ

明治十年頃(1877) 三井酢造「床の梅」 塩田・醤油・酢・酒造
明治二十一年頃(1888) 塩田が終わる塩田・醤油・酢・酒造
明治三十六年頃(1888) 醤油製造はじまる。塩田・醤油・酢・酒造


丸尾港:越荷方会所(こしにかたかいしょ)
(床波からいえば西隣りの)丸尾港には17世紀の中ごろに造られた波戸(波止堤)と、この波戸 の鎮守として勧請された「三神社」があり江戸時代中期の海運華やかな時代をしのばせる。 1719年朝鮮史使船が寄港。また、諸廻船が出入りした。
丸尾の港は、下関と熊毛郡上関の海路の唯一の避難所としてできた。
幕末には越荷方会所が設けられ、仲買問屋も五戸できて、商港としての役目も果たした。 越荷方会所とは北陸から関門海峡を経由して大阪へ行く西回りの船に、船荷の一時預かりを する倉産業と、船荷を盾にとって金を貸す金融業を兼ねた藩営企業である。 岐波や床波の廻船業者が、宇部の石炭を内海沿岸の塩田や阪神方面に運ぶようになると、 荷役や非難で寄港する船が多くなり賑わった。が、陸運に圧迫され、今は漁港になってしまている。

明治時代

明治12年(1879) 岐波村が東岐波村と西岐波村に独立して戸長をおく。 藩政時代にも東岐波村と西岐波村に分かれていた。

戸長    加藤浩輔  明治12〜22年
村長初代 加藤東輔  明治22〜26年
   二代 藤本淳佐  明治26〜30年
   三代 兼広義長  明治30〜34年
   四代 藤本淳佐  明治34〜42年
   五代 土屋峰松  明治42〜大正4年
   六代 加藤亮吉  大正4 〜昭和4年
   七代 加藤一郎  昭和4 〜昭和13年
   八代 定近曹一  昭和13〜昭和18年

明治22年(1889)の地図
明治22年(1889) 陸軍製作の地図 (図書から引用 輯製20万分の1 明治17年着手)
長州と周防の境は鍋島と思っていたが、この地図では少し西よりになっている。
その鍋島も滑走路の延長で今は神様ごと港の東側に移転させられてしまった。

1905年
明治38年(1905) 発行 1/50000 賑わったと思われる集落
地図には港らしきものは見当たらない


西岐波小学校

明治3年(1870) 大学規則・中小学規則公布
明治5年(1872) 学制公布 小学校学校は尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学に類別される。
また、尋常小学は上下二等に分けられていた。
明治7年(1874) 現在の西岐波小学校が開校される。
明治12年(1879) 岐波村が東岐波村と西岐波村に分かれる。
明治17年(1884) 校名を錦波小学校と改める。

錦波尋常高等小学校

小学校が開校された当時の校名は分らないが明治20年(1887)校名を錦波尋常小学校と改名になった。
明治42年(1904)「帝国小学校名簿」には、西岐波村に錦波(キンパ)尋常高等小学校が、 また東岐波村に東際(トウサイ)尋常高等小学校が載っている。
錦波はキンパまた錦波をニシキワと読む。同じように東際をトウサイまた東際をヒガシキワと読むと、 村名の西岐波、東岐波と同じ読み方になり面白い。
これらは当時の漢学者がつけたといわれています。
明治19年(1886) 小学校を各4年の尋常小学科と高等小学科に分け前者を義務教育とした。
明治20年(1887) 校名を錦波尋常小学校と改名する。
明治23年(1890) 錦波尋常高等小学校と改称す。
明治25年(1892) 校地を現在の地に移す。
明治33年(1900) 小学校令で尋常小学校が無料となった。
明治38年(1905) 小学校内に図書閲覧所(後の西岐波文庫)がおかれる。
明治40年(1907) 義務教育6年となる

帝国小学校名簿818頁
帝国小学校名簿(818頁) 明治42年 国立国会図書館・電子蔵書より


大正11年(1922) 校舎を現在の位置に立て替える。
昭和15年(1941) 西岐波国民学校に変わる。(国民学校令制定)
昭和21年(1947) 宇部市立西岐波小学校に変わる。
昭和29年(1954) 校歌ができる。
昭和30年(1955) 木造校舎ができる。→このたび解体された
1950年代1950年代撮影・西光寺の裏から
2004年1月2004年(小学校は建替前の校舎)
2014年2月2014年
昭和35年(1960) 鉄筋コンクリート校舎ができる。→このたび解体された
昭和41年(1966) 体育館とプールができる。
昭和50年(1975) 児童の数が1907名(過去最高)になる。
昭和53年(1978) 常盤小学校が開校し、384名の児童が転出する。
平成 1年(1989) 川上小学校が開校し、150名の児童が転出する 。
平成 6年(1994) トイレがすべて水洗になる。
平成11年(1999) 台風で体育倉庫がこわれる。
平成12年(2000) NHKのテレビ番組に出演(西岐波小学校から生放送)
平成13年(2001) パソコンルーム設置
平成14年(2002) 体育館の床・本館のトイレ改修工事完了
平成18年(2006) 新校舎(北側完成)
平成19年(2007) 新校舎(南側完成)
平成20年(2008) 新校舎(管理棟完成)
平成21年(2009) 新給食室完成  校舎改築工事終了

吉敷郡教育史

吉敷郡教育史 吉敷郡教育史編纂委員会偏 明治四十五年(1912)七月
郷土の小学校である西岐波小学校の歴史が記録されています。


原文に西暦、スペース及び句読点を追加し、年毎に改行した。
一部の旧字を現在の文字に変更した。
[ ]意味または読み方を追記
○  判読不明
*1 教導:教諭
*2 輿地誌略:明治3年から同十年にかけて編纂、刊行された地理書、当時の教科書として使用された。
*3 単級:全校の児童または生徒が一つの学級に編成されていること。
*4 下賜:天皇など身分の高い人が身分の低い人に物を与えること。
*5 聖影:天皇の写真
第二編 明治維新以後の教育 四八頁

第六章 町村立小学校の沿革及現況 二三一頁

第二十七節 錦波尋常高等小学校 四五八頁

一 沿革

明治七年(1874)十一月 大字床波小字小路某の家に少年を収容して教授を始む。

十年(1877)九月 大字白土某の家に移し、又、大字請川に請川支校を置く。

十二年(1879)五月 田總稔一教導[*1]として就任す。

十三年(1880)八月 田中七郎教導となり、後、校長兼務。

十四年(1881)四月 大字床波小字濱に校舎を創設す。平屋瓦葺一棟にして坪数九十九坪床波小学校と称す。
同時に大字吉田に濱田小学校を設け、又、請川支校を廃?し大字片倉に西山小学校を設立す。

十七年(1884)四月 校名を錦波[キンパ]と改る。十月、錦波小学校を本校とし高等中等初等三科を置き、 西山小学を西山小学校を西山分校に、濱田小学校を村松分校と改称し各初等科を置く。

十八年(1885)六月 二階造二棟百六十坪を増築し落成式を挙行す。
八月 校舎新築の率先たるの故を以て文部省より輿[コシ?]地誌略[*2]三冊を賜ふ。

二十年(1887)四月 錦波尋常小学校と称す。

二十一(1888)年十一月 三浦順三校長兼訓導として就任す。

二十二(1889)年一月 本校附近に於て体操場九十坪を借入る。

二十三(1890))年九月 井原○作校長兼訓導として就任す。十月 錦波尋常高等小学校と改称す。

二十五年(1892)五月 校地を大字床波小字小路(現在の地)に移し、大に校舎を新築及び改築し、 平屋造三棟二階造一棟総坪敷約三百坪となし十一日を以て落成式を挙行す。
[注:現在の地といっても明治45年ことなので西岐波市民センターがその場所]

かつての校門市民センター裏門の石門はかつての校門のなごり

之と同時に西山村松両分校を廃し西山分教場を大字請川に設け尋常科十二学年の学級単級[*3]を設置す。

二十四年(1891) 教育に関する勅語の謄本を下賜[かし*4]せらる。

二十六年(1893)一月二十一日 聖影[*5]を奉載し二月十一日の吉辰を以て聖影室に奉安す。
同年九月 小学校基本財産千六百有○円を偏入し蓄積増殖の基を為す。村民の寄附に成るものなり。

三十二年(1899)六月 一ヶ教室十八坪を増築す。同年十二月 国吉六郎訓導兼校長と為る。
同年九月 運動場八十坪を拡張す。

三十五年(1900)四月 三ヶ教室及ひ兄童昇降所同便所等凡[すべ]て百十七坪を増築し、 又、運動場六百五十坪を開設し其の落式成行をふ。

三十八年(1905)一月 錦波小学校校友会の組織成り其の事業の一として図書閲覧所 (後西岐波文庫)を学校内の一室に設く。同年、年総会、補習、夜学舎、講習舎等を開設することとなれり。
同年三月 宇長谷?に於いて下○野原四町○歩を以て学校林を設定し、年々植樹を為すこととせり。

四十年(1907)十二月 小学校基本財産畜積○例を設く。

四十二(1909)年三月 教育品大展覧会を開催す。
同年五月 三ヶ教室及ひ廊下八十八坪を増築し落成式を挙行す。又、同時に農地買修地百二十坪を購入す。

第一 設置
設置 偏○ 附設
尋常高等併置竝ニ西山分教場 本校十三学級分教場一学級  

第二 就学
性別 就学 不就学 合計 就学百分比 郡内順位 備考
四四七 四五二 九八、八九    
三九九 四〇二 九九、二五    
八四九 八五四 九九、〇八 二一  


この原文は下記のライブラリーにて参照できます。
「吉敷郡教育史」
国立国会図書館デジタルコレクション

検索キーワードは 吉敷郡教育史 (コピーしてキーワードに貼付ける)
表示されたらコマ239を入力 458頁  第二十七節 錦波尋常高等小学校 「沿革」に上記の歴史が書かれている。


私立西岐波文庫

【 西岐波文庫一覧(1頁) 明治45年 国立国会図書館・電子蔵書より 】
西岐波文庫1頁

この原文は下記のライブラリーにて参照できます。
「私立西岐波文庫一覧」
国立国会図書館デジタルコレクション

検索キーワードは 私立西岐波文庫一覧 (コピーしてキーワードに貼付ける)

明治45年/大正1年(1912)「私立西岐波文庫一覧」を見ると当時の様子が分かります。
沿革に、明治37年(1905)錦波小学校内に三井誠乃進が図書閲覧室を設置したとあります。
他に、規則、蔵書一覧、閲覧人員及び貸出の冊数、地方巡回書庫成績表(閲覧記録だが成績表となっている) 寄贈図書雑誌、経費等が記録されている。
蔵書のページには「本文庫創立以来図書及雑誌ヲ寄贈セラレタル各位ノ芳名ヲ左ニ掲ゲカサネテ謝意ヲ表ス」 の記述に続いて誰が何冊寄贈されたかを記録していて、その中に郷土の名士と思われる人達の名前が見えます。(下図)
【 西岐波文庫一覧(17頁) 明治45年 国立国会図書館・電子蔵書より 】
西岐波文庫17頁


【 西岐波文庫一覧(18頁) 明治45年 国立国会図書館・電子蔵書より 】
西岐波文庫18頁



一寒村宇部郷は、明治22年の町村制実施では近郷五村を合併して宇部村と改称。 やがて石炭によって急速に発展、都市化の道を歩む。
明治中期以降、需要急増と採炭技術の進歩で、ついに日本最大の海底炭田を開発。 石炭産業と関連産業が飛躍的に増大し、海沿い東西に広がる市街地を形成する。
西隣りの小野田にはいたる所に石炭の露頭があって、すでに鎌倉時代の石炭使用 の跡をとどめていて、採掘が始まったのは二百数十年前といわれる。


明治27年(1894) 日清戦争始まる。
明治33年(1900) 義和団事件出兵。
明治37年(1904) 日露戦争始まる。


☆明治42年(1910)「山口県吉敷郡治一班」
国立国会図書館デジタルコレクション

検索キーワードの例は下記 (コピーしてキーワードに貼付ける)

山口県、吉敷郡
山口県吉敷郡治一班(表示されたらコマ16を参照) → 20頁 戸口
これをみると現在では想像もできない世の中であったことが分ります。
西岐波村の部分を抜き出してみると・・・

戸籍記録の内容である戸口(ここう)の項で本籍人族籍別に、
華族は0名、士族は204名、平民は5134名、計5388名。
現住戸数906、現住戸数人口5065名。

兵事の項では徴兵人員及び陸軍人員と海軍人員でそれぞれ現役、予備役、後備役に分け、 階級毎にも将校、下士、兵卒に分けて載っている。

教育の項では、尋常小学校0、尋常高等小学校1、分教場1、学級14、教員16名、 学齢児童の就学は759名、不就学は6名、計762名、幼稚園は0名

大正時代

大正元年(1912) 大黒屋創業 大黒屋ホームページ 山口県の伝統漬物「寒漬」

大正3年(1914) 第一次世界大戦 山東半島・青島に出兵
       東岐波・西岐波・井関・佐山の4か村の沢庵業者、山口沢庵漬組合を設立

大正4年(1915) 西本牧場を創立 西本牧場ホームページ 西本牛乳の配達車に「地元唯一メーカー」と書かれています。

宇部線
大正3年1月(1914)宇部軽便鉄道による助田(廃止)−西宇部(現宇部)間の開通に始まる。
大正12年8月宇部鉄道により床波−助田間開通、翌年阿知須まで延長、14年3月小郡まで開通。
大正18年5月買収されて国有化になった。

昭和時代

1930年発行
昭和5年(1930) 発行 1/2500 宇部線

1985年頃 2014年
写真† 向坂 三井酒造場 1985年頃(左:魚眼レンズ)  2014年(右)

   
向坂の角には酒屋の煙突が立っていて、地図には今でも酒造会社の名が載っている。
石垣を登ったあたり一帯は高い塀で囲った立派な屋敷ばかりで蔵もおおく建っている。
今でも赤味がかった花崗岩の石組で一目で古い港の造りとわかるところが残っているし、 城壁の様な石垣は歴史を感じさせる。
    
樽の表示→昭和十二年度 No30 周防床波 三井酒場 涛乃花 (現在は三井酒造場)

昭和17年(1942)8月27日 台風16号(周防灘台風)
被害は死者297人、負傷者118名、流出472棟、倒壊71棟、半壊643棟、床上浸水5082棟、床下浸水10201棟。
床波の被害は死者2名、重傷2名、流出100棟あまり、壊れたもの50棟あまり。
当時は護岸整備はまだなく防波堤は砂山のようだった。
昭和18年(1943) 西岐波村が宇部市に編入される。

引用:「ふるさと西岐波」

昭和18年には西岐波村でも宇部市と一しょになる話が出はじめました。 そうした時にたまたま7月に台風が来て港や海べが壊れたり、多くの家や畑、田などが流れ村人は大変こまりました。 そこで、いろいろ相談したうえ宇部市と11月1日から一しょになりました。 その時、
一、大水や大風で流された港や田や畑などを元どおりする手助けをすること。
二、西岐波の名前を床波か錦波にすること。
三、村の持っている長谷、南田、深田、刈家のおよそ18町歩の土地を南方八幡宮のものとして残すこと。
四、村を通る道を大きくしたり、浜田川のそばに道をつけること。
などを宇部市におねがいしました。 宇部市では「西岐波を床波にする」こと以外はみんな聞き入れました。 「西岐波の名前を床波に変える」のは政府が許さなかったからだ、ということです。 こうして長い間の吉敷郡西岐波村から宇部市西岐波区に生まれかわりました。

西岐波中学校

昭和22年(1947) 西岐波小学校の講堂で入学式をする。校舎は小学校の北側の一つを借りる。
昭和24年(1949) 新しく学校を建て始める。
昭和30年(1955) 新しい学校が出来上がる。
昭和31年(1956) 校旗ができる。
昭和37年(1962) 体育館ができる。
昭和40年(1965) 全日本学校環境緑化コンクールで優秀賞
昭和42年(1967) 学校給食を始める
昭和48年(1973) 新校舎の本館が建つ。 文部省道徳教育研究指定校となる。
昭和49年(1974) 山口県学習指導研究指定校となる。


昭和30年以後、石炭の衰退期が訪れ、42年最後の炭鉱が閉山し、宇部炭田 300年の歴史にピリオドを打ち、市の産業は石油をまじえた化学工業と転換してゆく。
宇部付近は県下で唯一の隆起性海岸で海岸段丘が背後に迫っていて、この丘陵は宇部台地と よばれている。子供の頃、友達の農家に尋ねて行くのに丘を登って行ったことを思い出す。 その道の途中にタクワンをつくる納屋があってそこにダイコンを漬け込む槽が地面を掘って 作られていて、その槽の大きなことに感心していた。
山口タクワンは西岐波・東岐波の名産であるが、寒漬(かんずけ)の方がめずらしいし、 個人的な嗜好でこちらの方を勧めたい。床波には寒漬の製造所がある。

床波が誇る伝統食品 よろしく→ 寒漬 大黒屋

炭鉱

新浦炭鉱 住吉神社の石塀から

納屋頭
納屋頭(納屋制度)→納屋頭が坑夫を雇って働かせる制度
キーワード「石炭鉱業」にて検索されたし。

新浦炭鉱
新浦炭鑛 事務?中

新浦炭生
新浦炭生

黒崎海岸地層
黒崎海岸で潮が引いた時に見られる石炭の地層
江戸時代・萩藩は石炭局を設置して中野開作野村新七宅に置き、石炭採掘を直轄した。
宇部炭鉱はこの西岐波の地にもおよび、長生炭鉱のことは炭鉱住宅の部落があったので記憶に新しい。
明治15年(1882) 新浦炭抗

大正4〜5年(1915) 亀浦炭鉱

大正8年(1919) 長生炭鉱の採掘が公に認められる。

大正10年(1921)12月30日 新浦炭鉱出水事故 34名の犠牲者 その後、長生炭鉱に吸収される。

新浦炭鉱墓碑
新浦炭鉱墓碑 江頭川河口
「大正十年十二月三十日変災 新浦炭鉱 宇部救護会」等の文字、台座に犠牲者の氏名が彫られている。
宇部共栄会が遺族救護儀損金を募集したところ、宇部地域のみでなく県庁産業職員などの寄付で約7000円を集めることができた。
この儀損金のうち5300円を遺族27戸に50〜350円 ずつ配分し、残余分は追悼会と墓碑建設費にあてられた。
大正11年発行宇部市地図の部分(復刻版)
大正11年(1922)発行宇部市地図の部分(復刻版より)
新浦抗、亀浦炭抗

昭和7年(1932) 長生炭鉱創業?

昭和8年(1933)3月 長生炭鉱の石炭積出し桟橋の写真←クリックで表示  出典:長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会

1942年前後の長生炭鉱抗外配置図←クリックで表示  出典:長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会

昭和17年(1942)2月3日 長生炭鉱水没事故

昭和34年(1959) 東神原海底炭鉱・床波鉱業所・出水事故
昭和34年8月に床波漁港西側の砂浜に炭鉱が出来た。 が、それもすぐ10月29日に出水事故で4人の犠牲者が出て閉山になった。
「大人が海の方を指差して海底炭鉱の坑道はあの辺りで、死んだ人は誰も出てこんのよ。」というようなことを言っていた。
この炭鉱や事故のことは他の宇部炭鉱の大きな事故に隠れてしまっている。
宇部における炭鉱の事故の歴史を調べてみると毎月何名かの死亡者が出ている。
"ピーヤ"の呼名について。
「長生炭鉱の石炭積出し桟橋の写真」で分かる通り、石炭積出し桟橋のすぐ傍に坑内の「空気及び排水抗」が見えます。
桟橋は英語でpierピヤー。ここから”桟橋にある空気及び排水抗”をピーヤと呼ぶようになったのでしょう。  引用:郷土史

1980年撮影、黒埼から見る長生炭鉱と炭鉱住宅←クリックで表示  撮影本人

長生炭鉱の思い出 (引用:西岐波公民館発行 ”にしきわだよりNo18” 西岐波昔話シリーズ 1981年 s56)

長生炭鉱・殉難者の碑に想う (引用:西岐波公民館発行 ”にしきわだよりNo32” 西岐波昔話シリーズ 1986年 s61)

昭和57年4月(1982) 殉難者之碑 長生炭鉱跡地に建立される
殉難者之碑

殉難者之碑
殉難者之碑

長生炭鉱 (引用:宇部ふるさと歴史散歩)

長生炭鉱水没事故・追悼碑建立 (引用:宇部日報 2013.2.3 記事)

長生炭鉱水没事故慰霊碑
平成25年(2013)2月2日 床波一丁目(新浦東)に「長生炭鉱水没事故・追悼碑」建立される。
写真は後に「長生炭鉱水追悼ひろば」の標識が設けられたもの。

標識の裏
追悼ひろば・標識

標識上段
追悼ひろば・桟橋

長生炭鉱の石炭積出し桟橋の写真(昭和8年(1933)3月)←クリック 標識上段の写真拡大
宇部炭田の主な炭鉱分布図(1940年最盛期)←クリック 標識下段拡大

追悼広場文

「長生炭鉱水追悼ひろば」のパネルを撮影



昭和20年頃の魚市場風景
昭和20年頃の魚市場風景  にしきわだよりno6 (S53.2)より
昭和23年(1948) 床波港を広くする工事を始める。
昭和25年(1950) 宇部市、西岐波公民館を設立
         床波漁港改修
昭和26年(1951) 床波の住吉橋改築竣工、落成式を挙行
1951年発行
昭和26年(1951)発行 1/2500 この地図では床波漁港の工事中の様子はわからない
190号線のルートが変わる 炭住が増える
地形の変化 地形の変化 クリックすると拡大します。

昭和27年(1952) 白土海水浴場を開設
昭和30年(1955)4月 床波港防波堤灯台・初点
昭和31年(1956)4月 床波漁港落成

漁港図
当時の床波漁港図

1960年頃から山側の台地の上に宇部市郊外の住宅地として多くの住宅団地が出来、 最近は宇部テクノポリス構想で工業団地が作られた。 また山側には温泉、大病院あり。
床波を通っている狭い国道190号線にバイパスがかかり、バイパス周辺は新しい店が建って いるが、おかげで床波は昔ながらの風情でいっこうに変わらない。
昭和41年(1966) 宇部空港が開港 滑走路1200m
宇部空港開港
出典:山口県文書館所蔵

昭和42年(1967) 床波バイパス開通

1971年発行
昭和46年(1971)発行 1/2500 床波漁港の整備 バイパス 団地

参考資料⇒1974年航空写真 wikipedia「西岐波」より引用
1974年航空写真クリックすると拡大します。

80年代?
案内掲示板 1980年代か? 

1985年頃?
写真† 床波夕暮れ 1985年頃
埋め立て工事中、道路の右側にはまだ海が残る。

昭和54年(1979) 宇部空港 滑走路2000m/昭和55年から山口宇部空港と改名


平成時代

1992年発行
平成4年(1992)発行 1/50000 沢波川の河口を直接海へ通じるように床波漁港が変わる

平成11年(1999) 9月24日 大型台風18号宇部直撃、午前9時前宇部市付近に上陸
宇部市の被害は、床上250戸、床下1500戸、避難230人、停電7万6515戸
床波では低い地域に沢波川からの高潮で床上浸水被害に襲われる。
台風18号による浸水線
撮影2015年
27日ウベニチ記事から
被害の大きかった大番地区を歩いた。海岸線沿いの高さ3メートルの防波堤をこえた海水が 家屋を襲った。乗用車は海に投げ出され、船が民家まで流れ込むという信じられない光景。 あれから3日たったが市民生活の完全復旧には時間がかかるだろう。
平成13年(2001) 山口宇部空港 滑走路2500m

2004年「電子国土」
平成16年(2004) 出典:電子国土ポータルサイト「電子国土」

滑走路の拡張工事で鍋島は消滅して、床波漁港の沖に移動  防波堤の形が変わり、灯台の位置も変わる。
鍋島
写真† 鍋島 引き潮の常盤海岸 1985年頃 

平成16年(2004) 台風による沢波川高潮被害を防ぐ堰の工事が始まる 
沢波川防潮水門完成予想図


[床波」が住居表示に復活

引用:宇部日報2005年10月13日

住居表示新町名は床波1〜6丁目に
宇部市は、JR床波駅から西岐波小・中学校周辺に至る地域で、新たに住居表示を行う。 新町名は床波一-六丁目。十五日から十一月十四日まで市役所や市民センターで公告し、 来年三月と七月の二段階で住居表示を実施する。  対象はJR宇部線以南で、西は江頭川から東は浜田川まで。 新浦、浜の全部や権代、小路、白土、浜田などの一部が含まれる。
広さは合計八十五・五fで、世帯数は千百五十。

宇部日報2005年10月13日 道しるべ 道しるべ 住居表示
参考資料⇒字図(床波付近) 字図(床波付近) クリックすると拡大します。

旧西岐波行政区


これで今からは「住所は床波」です、と言ってもよい、が、住民の便利さでは従来の地区名の方が上。
歴史的意味のある地区名が消えるのは淋しい。(消えないか?)
対象地区は新浦東、新浦西、新浦後、旭町、港、栄町、住吉、浜、浜東、向坂、梶取、浦安、鍋屋、大番、権代西、権代東、小路、白土、浜田の一部

平成18年(2006)3月20日 住居表示「床波1丁目〜3丁目」発足
平成18年(2006)7月8日  住居表示「床波4丁目〜6丁目」発足

床波漁港は港の半分ほど埋め立てられ、また、海岸道路は拡張工事にて国道190号線の大沢につながる。
黒崎から2008年
黒崎のカーブ、歴史遺産のピーヤー、のろしを揚げた火の山、遠くに秋穂の岬(山々も)が望めます。

バイパスにある地図看板
190号線バイパス 来来亭の前にある地図看板 2010年頃?

地理院地図(電子国土Web)より最新版
最新地図 出典:地理院地図(電子国土Web)


平成27年(2015) 江頭川・高潮対策工事
江頭川高潮対策工事

元禄14年(1701) 床波の水害を防ぐため江頭川を掘る。
地形の変化 地形の変化 クリックすると拡大します。


資料 および リンク


写真†:かつて宇部を紹介していたHPから借用しました。著作者を探しています。

ふるさと西岐波 宇部市西岐波ふるさと運動実行委員会 昭和59年(1984)発行

ふるさと西岐波 地域編・床波  宇部市西岐波ふるさと運動実行委員会 昭和63年(1988)発行

床波あれこれ(第2号) 西岐波郷土史研究会 平成13年(2001)発行

「地下上申」じげじょうしん:
萩藩は十八世紀半ば(1740)に「地下上申」という地誌を編さんした。山口県文書館蔵

「風土注進案」ふうどちゅうしんあん:
「国都志」編さんのために各村から提出された報告書(1842)は、明治時代に入ってこの事業を 引き継いだ近藤清石によって、明治15年(1882)に「防長風土注進案」としてまとめられた。
1村1冊、計385冊に及ぶこの記録は、幕末期のほぼ同一時点での藩領域内町村の実態を知りうる 根本史料として非常に貴重。山口県文書館蔵

描かれた小郡(小郡宰判絵図にみる幕末の風景)展示図録 山口市小郡文化資料館
12ページの「岐波村絵図」床波に塩田が描かれている貴重な資料

忘却された支配 日本のなかの植民地朝鮮 (著)伊藤智永 岩波書店
第1章 強制を思い出す 宇部

荒人神社(宇部ふるさと歴史散歩から引用)

長生炭鉱の”水非常”を歴史に刻む会

西岐波小学校ホームページ

国立国会図書館デジタルコレクション

伊能忠孝e史料館
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